VRスポット

1.VRスポットについて

現在は見ることの出来ない壬生城をCGで復元しました。当時の大手門を様々な視点からご覧いただけます。

2.使い方

【パソコンで見る場合】
3.の「360°画像」で紹介されている360°でみるをクリックするとグーグルマップが開き、マウスをドラッグする事で周囲を見ることが出来ます。

【スマホで見る場合】
AppStoreやGooglePlayからGoogle ストリートビューとGoogle Cardboardアプリをダウンロードします。

  1. ストリートビューを起動します。
  2. 画面上部の虫眼鏡アイコンが表示されるので、タッチして壬生町立歴史民俗資料館と入力します。
  3. 画像のリストが表示されるので、見たい360°画像をタッチします。
  4. 360°画像の場合、カードボードアイコン(仮面マーク)が表示されるので、タッチします。
  5. cardboardアプリの指示に従い初期設定を済ませたら、画面が4.で選択した画像に切り替わるまで待ちます。
    切り替わったらお手持ちのカードボードやVRヘッドセットへ装着すると、没入感がアップします。

3.360°画像

番号の位置を見ることが出来ます。


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360°でみる

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4.大手門の位置

5.大手門の解説

壬生城大手門について

壬生城VRで再現した大手門は、元禄7年(1694)に、壬生城主「松平輝貞」が壬生城を大改修したときに造られました。大改修前の大手門は、もっと簡素な造りで、さらに時代を遡ると、別の場所に大手門はありました。
壬生城には、天守やそれに代わる櫓などは建てられなかったため、大手門は城のシンボルといえる存在でした。江戸時代末期の記録『壬生領史略』には、
「壬生通を往来する旅人は、誰もがその威容に足を止めてながめていた。雪の降った翌朝、大手門は朝日に輝いて、とても素晴らしい景色だ」
と記されています。
壬生城VRで復原した大手門の姿は、この『壬生領史略』が記す「大手御門広小路之真景」で描かれた姿を基にしています。壬生城VRで、その威容をぜひ実感してください!

壬生城大手門には、どのような歴史があったのでしょうか?壬生城大手門について、より理解を深めていただくために、ちょっと解説してみましょう…。

一. 大手門が出来るまで

壬生城VRで復原した大手門は、元禄7年に造られました。それ以前は、どこにあったのでしょうか?
もともとの大手門は、城の南側にありました。壬生城は東西を黒川と思川に挟まれた台地の北端部を利用して築かれていました。南側に広がる台地上…現在の壬生小学校から御長屋通りにかけて…には、城下町が造られ、南の城下町に向かって大手門は開かれていました。
城や城下町と台地の東側を流れる黒川との間には、壬生通をはじめ四方に街道が通り、こちらにも「まち」がつくられました。壬生城から東の街道に通じる道には、門も造られていました。造られた年月は不明ですが、絵図から、壬生通に面して門柱を立て、その奥に平屋建ての門を建てた構造であったことがわかります。(近くの興光寺の山門が同じ構造です。)

江戸時代のはじめ、元和3年(1617)に始まる徳川将軍家による日光社参(日光東照宮の参詣)が行われると、壬生通は社参の道となり、壬生城は将軍の宿城(旅館)となりました。
承応2年(1653)2月9日、壬生城は、城の南に広がっていた城下町の一画(小袋町)から出火した火事により、城下町とともに全焼する、という大災害に見舞われました。大災害からの復興過程で、城や城下町は大きく変わっていきました。最も変わったのは、城の南側にあった城下町を東の街道沿いに再編したことです。
この町並の再編により、将軍が宿城する際の入城ルートも変更されました。壬生城に入る門(御成門)が、南の大手門から東の門へと変更されました。当時を記した史料『野州壬生御宿城一件』には、この東の門は、東大手門と記されていることから、御成門の変更が門の名称にも影響していることがわかります。この時は、御成門の変更という経路の変更だけであり、門の姿は、これまでと同じ簡素な造りのままでした。

二. 大手門の改修

壬生城大手門を、簡素な門から壬生城VRの大手門のように変えたのが、壬生城主「松平輝貞」でした。壬生城全体に及ぶ大改修の中心となったのが、大手門の改修でした。
「松平輝貞」は、5代将軍綱吉の側近(御側御用人)として、幕府の中枢にいました。そのため、壬生城に来て改修の指示をすることは出来ません。その代わり改修の一部始終は、改修工事の奉行(責任者)「山本重左衛門」との書状の往復による指示で指揮をしました。山本重左衛門の子孫によって伝えられた21通にも及ぶ輝貞の指示書簡は、2巻の巻物として保存されており、改修工事の経過を知ることができます。
この書簡の中で、輝貞が強調していたことは、将軍の御成です。日光社参の宿城として、壬生城大手門は、御成門という意識が強く記され、丈夫に造ることが指示されていました。
その結果、大手門は、頑丈に造られ、構造的にも、見た目にも、それまでの大手門とは全く異なる門として誕生しました。大きな特徴は、櫓門と馬出です。

*櫓門

もともとの東大手門は平屋の門でしたが、改修後は2階建ての櫓門となり、大変立派な造りになりました。2階は、平側に5箇所、妻側に2箇所の窓があり、窓の上下には長押型が巡らされていました。屋根の大棟の両端には、松平家の家紋(浮線蝶)がある鬼瓦が葺かれ、その上には鯱が載っていました。大手口の櫓門は、高層建築のない壬生城にとって、表玄関を飾るには相応しい姿と言えます。
なお、門の両側に延びる土塁上には、狭間のある土塀が建てられ、城の表玄関を厳めしく演出しました。

*馬出

馬出は、門の外側に造られた半円形の区画です。丸馬出と呼ばれるタイプです。馬出は、城外への開口部である門の部分を防御する場所と攻め寄せる敵を攻撃する場所として造られました。壬生城の大手門は、馬出に向かって左右の土塁がせり出しているため、馬出の南北2箇所に開けられた門に押し寄せる敵を横から攻撃することが可能な、馬出としては完成された姿をしていました。馬出の三方向は広小路となっているため、壬生通からは良く見通せるようになっています。これは、城下を通行する者に、その威容を見せつけるという効果をねらったものと考えられています。

こうした経緯で、壬生城大手門は、壬生城VRでご紹介した姿に改修されました。
残念ながら、改修を指揮した「松平輝貞」、責任者の「山本重左衛門」そして壬生に居住していた家臣たちなど、松平家の人々が、大手門の完成を見ることはありませんでした。元禄8(1695)年2月に松平輝貞は転封を命じられ、改修工事も未完成のまま、5月には上野国高崎城(群馬県高崎市)へと移ってしまったためです。
さぁ、壬生城大手門は、いつ完成したのでしょうか?これは、現在も謎のままです。
一説では、松平家の後に壬生城主となった加藤家によって完成されたと伝えられています。

三. その後の大手門

壬生城大手門の完成後200年近くの歴史の中で、大手門について語られている史料は、冒頭で紹介した『壬生領史略』のほかには、少ししか残っていません。数少ない史料の中から、幕末の大手門の様子がわかる3点をご紹介します。

* 伊勢屋火事(年不詳『見聞控之帳』)

嘉永6年(1853)12月28日に発生した火事の記録です。宇都宮街道沿いにあった伊勢屋から出火したことから、伊勢屋火事と言われています。この火事は、通町から表町にかけての城下町の中心部や城内の武家屋敷や長屋など341軒が焼失するという、壬生の火災でも最大級の被害となりました。挿絵では、大手門の北側から、火の手が城内に飛び火した様子が描かれています。馬出や櫓門は、延焼を免れ健在であったことが確認できます。

* 安政大地震からの修復伺(安政3年3月付「大手口土塀修復伺」)

安政2年(1855)10月2日に発生した安政大地震と関連の余震により、大手門付近の土塀が大破しました。大破した土塀の修理をするため、安政3年3月付で幕府に提出した修理の許可伺いです。当時の城主鳥居忠挙の花押があります。
修理伺いの対象の土塀は、朱線で対象を指し長さを記した絵図が付されていますが、修理の対象ではない櫓門については、門の位置に四角く存在が示されているだけです。

* 戊辰戦争での攻防戦(『慶応四年諸御用留帳 戦争の形状』)

慶応4年(1868)の戊辰戦争で壬生藩がどう戦ってきたのか記録された史料です。4月22日「安塚の戦い」が戦われていた時、壬生城でも大手門付近で戦いが行われていました。
宇都宮城を占拠していた大鳥圭介率いる幕府軍の本隊は、壬生城に向かって南下。安塚に布陣した新政府軍と姿川を挟んで激突しました。手薄な壬生城の攻略を図り、伝習隊第2大隊の7・8番小隊が別働隊として雀宮方面から南下。雄琴神社付近から黒川を渡り、壬生城に迫って来ました。侵入を知った壬生藩士が迎撃に向かいますが、船町での銃撃戦では、中筒士の小西金作が銃弾を受け死亡するなど劣勢であっため、壬生城に撤退して籠城します。
大手門前の藤屋安兵衛方に4~5人の敵兵が放火を試みますが、その日は雨模様であったことから、火は燃え広がらず放火は失敗。それを城内から鉄炮で狙撃して打ち倒したことが記録されています。発砲の場所は、記されていませんが、位置関係から考えると、馬出の中央付近から発砲したと考えられます。壬生城大手門を挟んでの攻防戦が描かれています。

壬生城は、日本のほかの城よりも2年早く、明治3年(1870)には、壬生藩が自ら廃城を上申、城の修理を放棄しました。翌年10月20日には、本丸以下の壬生城の土地は、藩士たちの屋敷や長屋等を除いて、10区画に分割して払い下げとなりました。大手門から馬出にかけての「大手前広小路」は、第6番割地になっています。
伊勢屋火事にも安政大地震にも生き残ってきた大手門ですが、壬生城の廃城後に、どのような経緯でその最期を迎えたのか…物語る史料は、いまだ見つかっていません。

壬生城大手門は、まだ多くの謎を残したたまま、歴史の中に埋もれています。

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